白鷹天蚕ものがたり

1章 しらたか天蚕の会の再挑戦 泉二社長との出会い

平成23年3~4月、しらたか天蚕の会は、何度も役員会を開催し、これからの活動について話し合いを続けていた。

「天蚕を飼育しても、反物を買ってもらえないのなら、もうやめるがは・・・」

天蚕飼育を始めた当初は、天蚕の会が収穫した繭を町内の織物組合に買い取ってもらい、織物組合が一反に織り上げて売り出していたが、商品はなかなか売れず、もう何年も東京の呉服屋さんに繭を買い取ってもらう状況だった。

「飼育は一度やめたら二度と飼育でぎなぐなる。天蚕飼育の技術は、そういうものだ」

長年飼育に携わってきた役員が口を開く。

「霊山(福島県)の人だは、どうしったべ」東日本大震災の年だった。

「今年は飼育するべ(しよう)。今年一年かけて今後の事を決めるべ。(震災の影響で)霊山にもし何かあったら、卵を分げでやっぺ」

会長が言った。


その年の6月、いつものように圃場のクヌギに卵付けをした。

7月、1550粒の繭を収穫した。

8月、臨時総会の席上、これからの事が話題になった。

「やめんなねがは・・・(やめなくてはいけないか)」

「やめるなはいつでもやめられる」

「何のために飼育すんなだ(するのか)。商品ほしい人、いねなが(いないのか)。」

「正直、儲かる話ではないげんと、おらんだ(私達)の代でやめでいいもんだが・・・」

「買い手の事は問屋さん任せだから、なんとも・・・」

「おらんだ(私達)で売られるものでもないし・・・」

「やめだら二度とでぎなぐなるは。それでいいが・・・」

・・・・

「買ってもらうところがあれば飼育するのか」と、事務局が問いかけた。

「そりゃあそうだ。必要とされでることがわかれば頑張って飼育するごで」

「天蚕の飼育だけでなく、糸取りも織りもやってオール白鷹にしたらどうだ」

「付加価値を上げて、収入も上げらんにぇが(上げられないか)」

 (繭を買い取ってもらうだけでは、飼育にかかる人件費は、時給300円にもならなかった)

「糸取りの技術は、今はある。今のうちに後継者を育成しないど、技術がなぐなる」

「よし、オール白鷹の一反つくるべ。買ってもらうどこも探すべ」

 天蚕の飼育を担当していたしらたか天蚕の会が、「オール白鷹」の「ものづくり集団」になった瞬間だった。

 「飼育はやめない」「やめだぐない」「もう一回、やるべ」

 再挑戦が始まった。

 飼育担当は、1反を織るのに必要な4000粒から5000粒を単年、または2か年で生産するための技術を検証。

織り元は、繰糸技術の伝承。繰糸機の確保。

会員全員で、繰糸をしてくれそうな人の発掘。

事務局は、買い手探し。買い手はどうやって探すのか…。さて、問題。

 この年に収穫した1550粒は、「銀座もとじ」さんに全量買い取っていただいた。

 「銀座もとじさんにお願いしてみよう」

 事務局が「銀座もとじ」の泉二社長とお会いしたのは、まだ残暑厳しい8月だった。

今まで天蚕繭を買い取っていただいたことに感謝を申し上げるとともに、しらたか天蚕の会の現状とものづくりへの再挑戦の意欲を申し上げ、「オール白鷹の一反を買っていただきたい」と、まだ商品もない状態の中で懇願した。

泉二社長は、「買いましょう。良いものを作ってください」と即答してくださった。


今思い出しても、熱いものがこみあげてくるほど感激した瞬間だった。今考えてもなぜ即答してくださったかは、わからない。

消えかかっていた白鷹町の天蚕の技術のともしびが、また赤々と燃え始めた瞬間だった。

泉二社長に「しらたかの技術」を未来につないでいただいた。

泉二社長のお言葉を会員に報告すると、みんなが活気だった。

 飼育担当は、卵の保管、洗浄の見直しをし、クヌギの補植の検討をはじめた。

 繰糸機は、手直しが必要だが使えるものが見つかった。

 繰糸者は、経験者を探したがなかなか見つからず、町内の手工芸グループの方から承諾を得た。その中の一人は、「昔、母親が糸取りをしていた」と。繰糸作業の場所もお借りできることになった。

会員の多くは、稲作農家やぶどう農家である。農閑期の冬に、泉二社長の元へご挨拶に伺う計画が持ち上がり、翌年2月に上京した。

その時、もとじ社長から頂いた「白鷹産にこだわった商品づくりに協力したい。白鷹ならではの一反を作りましょう。売れる商品づくりをしましょう」という言葉が、どれほど会員のやる気になったことか。


平成25年6月。

ついにこの日が来た。

銀座の一等地、「銀座もとじ」さんでの白鷹天蚕紬発表展示会。

たった一反の展示会。飼育担当、繰糸担当、織り元、事務局、総勢9名が上京しこの発表会に臨んだ。作業のときどきに「銀座もとじ」さんにお送りし報告していたたくさんの写真を、續さんがまとめてくださり、スライドにして紹介してくださった。

作業工程のスライドを見ていただきながらの、作り手達とのトーク会。集まった方々は、男女半々くらいで、着物を着ておられる方も多く、着物が好きな方ばかり。大変興味をもっていただいた。たくさんの質問が出た。熱心に質問される姿に作り手たちは驚き、感激した。

中には白鷹お召を着た方もお越しになった。白たか織の佐藤さんもビックリ。作り手と買い手の始めての出会いだった。この方は、私達と合うのを楽しみにしていてくださり、お土産までご用意くださり、一同大感激した。

一年がかりの一反は、白鷹から巣立っていった。

様々な出会いがあり、次の一反の生産に取り掛かかる。その喜びをかみしめ帰路についた。

天蚕は、野蚕で、クヌギを食べる緑色の蚕。白鷹町ではもう20年以上飼育している。今までは、飼育者が繭を出荷し、織元が製品にして問屋に卸す方式だったが、かなり高価なものでもあり、なかなか売れず、圃場を縮小、生産量も激減、存続の方法を模索してきた。

二年前、「銀座もとじ」の泉二社長さんに買って頂ける約束をいただき、今度は、飼育担当と織元が一緒になり、更に繰糸者を育成し、「オール白鷹」の一反をつくった。生産量の激増の裏には会員の様々な研究、手厚い見回り、そして何より、「一反を作るぞ!」という会員みんなの意気込みがあった。

白鷹には、飼育、繰糸、織り、すべてのプロがいる。しかし、その一反を欲しいと言ってくださる方に出会うノウハウがない。

白鷹天蚕紬発表展示会は、一年で、全国1億人の中からのたった一人との出会いを「銀座もとじ」さんに託した日となった。

発表会の2日後、深山の圃場ではまた卵付けをした。


展示発表会から一か月もしないうちに、泉二社長さんから事務局に「いい方に買っていただきましたよ」と連絡をいただいた。うれしい知らせだった。今思い出しても涙が出てくる。会員に電話でそのことを伝えると、皆が歓喜の声を上げた。

 翌平成26年度には何とかもう一反を織りあげ「銀座もとじ」の泉二社長にお届けし、今度は、男性のお客様に買っていただいたという連絡をいただいた。

 「高価な一反を望む方の手元にお届けいただく」どれほど難しいことか。我々には到底成し得ないこと。作り手にとってこれほどうれしいことはない。


しかし、ものづくりは難しい。

翌平成27年28年は不作となり、一反にできない年が続いた。そんな年も泉二社長は我々を励ましてくださった。

「いろんな年がありますよ。それだけ大変なものづくりをされているということはわかっています。頑張って来年また一反にしてください。」と声をかけてくださった。

ようやく平成29年は一反分の繭を収穫することができた。今度はどんな一反になるのだろう。「しらたか天蚕の会」は、三反目の完成を楽しみにしている。

いつか、天蚕の着物の「里帰り」ができないか。今、「しらたか天蚕の会」は夢見ている。飼育担当だけだった「しらたか天蚕の会」は、「ものづくり集団」になって初めて織り上げた天蚕紬を見ることができた。あの光沢と色に魅了された。

天蚕紬を買っていただいた方に天蚕紬を着て白鷹町に来ていただきたいと考えている。天蚕紬が育った同じ土と水と空気で育てた米や野菜を食べていただきたい。白鷹の風土を見ていただきたい。何よりもお会いして感謝の気持ちを伝えたい。その出会いは会員のやる気につながる。

技術を未来に残す取り組みは、作り手だけでは到底続かない。作り手と買い手をつなぐ架け橋となる泉二社長との出会いが本当の再挑戦の始まりであった。

 【銀座もとじにて】 平成242

   

【銀座もとじにて 白鷹天蚕紬展示発表会】 平成256